日本語教室inミャンマー
池田貴之さんの場合
※池田さんは現在台湾に住んでおられるためインタビューに答えていただく形になりました。
編集者:ミャンマーに行ったのはいつですか?
池田:2000年4月26日やったかな?マンダレー入りは。とりあえず由里子さん(編集者注:池田さんと同時期に行った日本語教師、吉川由里子さんの事です)と同じ日に行こうと思ってがんばりました。おかげでヤンゴンはわずか一泊。しっかりプリンとアイスは食ったけど。ヤンゴンのプリンはほんとないよ。あんなうまいプリンは。ぜひおすすめ。
編集者:ミャンマーでの任期はどれくらいだったんですか?
池田:任期はわずか一ターム。授業は5月4日?から7月15日まで。この任期についてはグループの皆さんも疑問があったやろうし、自分の中にも葛藤はあったんですが、今から考えたらこれでよかったかなあと思っています。また機会があればいくことになるかもしれないし。
編集者:なぜミャンマーに行こうと思ったのですか?
池田:タイミング…かな?えっ?こんなもんじゃ納得しない?動機はねえ…子供時代までさかのぼる。毎日地球儀を回しては世界の国を旅行することを夢見ていた子供時代。いまそのころ考えてもなかったくらいの数の国を旅行し、海外に住むという夢も一応かなえてる今ぼくは幸せなはずなんだけど…大学時代に台湾人留学生達と仲良くなり、彼らを通じて知り合ったYMCAは、4年生の時に日本語の先生になるためのセミナーという形となって再びぼくの前に姿をあらわしました。その一年を通じてのいろんな仲間達との出会い、旅行、教育能力試験講座(亀田先生おつかれさま)などはハプニングもありながら、大きく自分の人生に影響を与えてもらったと思っています。そして先生達から自ら学校をネパールとミャンマーに学校を作るって聞いた時は、もうぶっ飛びましたね。まさかそんな夢みたいなことができるって思ってなかったから。実際ネパールの学校訪れた時も、本気で赴任させてもらおうか考えたし、ミャンマーの学校ができた時は、そのうち絶対この学校に教えに来るって思ってた。そのころは今よりもっと内部事情とかわかってなくて、結構勝手に話が進んでたみたいなところがあって、何も協力できてなかったんだけど、そのあと日本はなれて、台湾で暮らしてた時はもっとYMCAから離れてた。ネパールの教材作りとかも。もっと関わりたいって思う気持ちはあった。それがあるとき帰国した時に参加した会議。図らずも平野君(※編集者注:私の事です^−^;)との初おめみえやったときだけど、ミャンマーに次の先生として赴任することを相談したら、意外にもその場でOK。しかも過去の先生の一年赴任という掟を破り、オンリー1タームというわがままぶり。何でっていわれてもはっきりいって自信がなかったのと不安やったのは確か。それからの仕事のことも考えなあかんかったし。でもこれでもっと深くHITOの活動に関われると思ってそのことは嬉しかったし、ミャンマーでの生活、授業も早く始まってほしかった。これから始まる新しい変化にすごい期待してた。ってきくと、ぼくがミャンマーに行くことになったのは必然って気がしない?
編集者:ミャンマーでの苦労話を聞かせて下さい
池田:苦労したかなー?いや結構したと思うよ。こんなんいったら由里子さんや山路さん他スタッフはなにゆってんねん!とかいいそうやけどね!まず、授業時間が長い!絶対長い!でも過去の先生達はずっとそれでやってきてたし、しかももっと長い時もあったらしいし。何より同時に担当してた由里子さんでさえ一時間多かったから、文句は言えなかったけどね。でも試験前とかはすごい疲れる。試験もいくつか作ったし、それを間に合わせなければというプレッシャーもあったしね。お金はねえ…最初からわかってたから、仕事量に対して少なすぎるという不満はなかった。生活には足りてたし、学校の生活にはおかげさまで結構満足してたんで。でも停電とか水がきれいじゃないとか、まあ、そんなのは生活のスパイスにもなってたくらいだけど。個人的に暗いのは嫌い、怖い。掲示板にも書いたけどスタッフとの会議とかでも話が通じなくて大変な思いしたけど、けど、苦労があったから楽しかったのはあるよね。ただ遊んで楽しかったのもあるけど、苦労を通じて得た充実感みたいなんが余計に記憶に残る。
編集者:ミャンマーに行って得たものはありますか?
池田:よくわからんけど、ミャンマーの人たちの考え方は真似しようと思ってももうなかなか真似できないね。家族や目上の人をを大切にする気持ち。友達を思いやる気持ち。好きな人を大切に思う気持ち。その時はただ戸惑うばかりだったけど、あの中にいてこそ保てる…離れてからわかった。ぼく達が日本とか台湾とか経済が先に立ってる国にいると気のもち様だけではどうにもならないことがある。ミャンマー人が日本に来てもそのうち同じようになるんじゃないかと思うけどね。その違い。戸惑い。頭でわかってても決して溶け込むことはできない歯がゆさみたいなものは感じてたね。あくまでいずれは離れてしまう外国人やからね。そんな楽園のようなミャンマー人にも現実的な問題は避けられないようで、離婚率は意外と高いらしい。統計なんかありっこないのだが、話を聞いて、その理由を考えてみればおのずと見えてくる。もともと女性の権利は法律とかで守られてるわけではなく、戸籍とかもあるらしいけど、結婚制度もあいまいなところが多い。仕事があって、お金もある男は必然的に若くてきれいな女の子に目が行くからね。そして離婚して一人で育てたり、育てられなくて養子に出したりといったことがよくあるよう。養子も身近にいっぱいいたしね。養子を受け入れるってのもミャンマー人のやさしさか?日本じゃ考えられないけど、そういうことが普通にできるってのがミャンマーの豊かさか。
編集者:ミャンマーではどういう生活パターンだったんですか?
池田:朝はほとんど向かいのインド系朝ご飯屋でナミャ(ナン)とチキンカレーとスターオレンジで決まり。ぼくはあんまり参加してなかったけど、由里子さんや藤原さんはよく朝5時半から王宮一周チャリで回ってた。たまーに朝まで寝られなかった時とか行ってたけど。夜そのまま寝てしまって朝になってからあわてて宿題採点したりということも時々…いやしょっちゅう。ごめんなさい。そう考えたら人センターの学生は実に真面目だ。特に初級の学生。ほとんど無遅刻、無欠席、宿題提出率もほぼ100%、すばらしいね。朝7時から、初級1と中級3のふたこま。中級3は時には深い話もできるから楽しかったね。教えてるだけじゃなくて、学びあってるって雰囲気もあって。このクラスの2人のおっさんとはよく休み時間とか休みの日も遊んだから特に仲良かった。昼は三階でナンスースー(編集者注:HITOセンター現地スタッフです)が作ったご飯をみんなで食べる。至福のひと時。しかもお腹がいっぱいになった後は、掃除してくれてきれいになった部屋でひるねー。もうナンスースー大好き!プールに行くようになってからは、昼寝も減ったけど、逆に運動がストレスを解消してくれて、元気になったかも。それまではちょっと忙しいのといくら寝ても寝たりない気がしてしんどかったけど、プール行くようになってから夜よく寝れるようになった。遊んでるって気持ちが心にも余裕をもたせてくれたのかもしれない。午後は4時半からふたこま。夜の初級1は疲れが蓄積してる上に、学生もひる仕事とかで疲れて集中力なくなってるのか、超うるさい。そしてほぼ毎日停電でペース乱されるという状況。平日はやっと終わったけどまた明日あるって感じなだけに、金曜の夜は最高。ミャスーの店でジュース飲んだり、出かけて飲みにいったり。でも生ビールは薄めなのでいくら飲んでも酔わない。大酔いした記憶はない。でも近くて生ビールあるからKO‘S KITCHINとかはよく行ってたけど。